デジタルで破壊される教育〜コロナで失ったプライスレスの宝〜
コロナ禍で約2年が過ぎようとしている2022年の幕開け。
ふと見渡せば、政府の無策による貧困と杜撰なデジタル化の押し付けが現実だった。
民間企業のテレワークは効率化のチャンスにもなったかもしれない。
反面、企業の交通費の出し渋りや自宅の光熱費の上昇や仕事スペースが確保困難による夫婦喧嘩をひきおこし、
テレワーク保護者の子どもたちの保育園の登園不可や逃げる場所がない子どもたちの虐待の増加も産んだことも事実である。
混乱期の止む得ないこともあるが、コロナ禍に乗じて教育にデジタル化を押し付け、子どもたちのデータを抜き取る流れは火事場ドロ棒どころでは済まない。
自治体により格差はあるとは思うが、我が子たちの体験は例外的なものではないと思うので、ぜひ知ってほしい。
下手くそで視聴するだけ時間と電気代の無駄なNHK経由の授業動画しかなく、自宅軟禁される公立小学校の児童。
大金をはらう私立や塾は即時、zoom授業はもちろんのこと、読み聞かせや自宅でできる体操などを配信する。
ネット環境の有無は収入とも関連があり、教育格差がでたことも事実であろう。
さらに、多くの公立小学校でタブレットが配布されたのは予算が通ってからの平成3年度である。
うんざりすることに、タブレット配布後の自宅学習の内容は、不慣れな教師の授業があるか、一コマ動画をみる程度であった。
通常授業にもどれば、体温と出欠連絡の道具にしかなっていない。
zoom授業をした小中学生の我が子は、学校や学校の教師を必要と思わなくなってしまった。
知識ならネットでよく、別に登校する必要もない、と思ってしまったのだ。
視聴したいテレビ番組を録画し、リアル視聴をしなくなった経験をもつ親世代の感覚に近いかもしれない。
学校で学ぶことは知識だけではない。
友にも自分にも出来ることも出来ないこともあり、助け助けられ、自分とは違う観点や価値観があることを知る。
思い通りにはいかないし、嫌な思いもするし、させてしまうことも体験する。
その当たり前を、親と離れて体験できる学び舎が学校である。
学校は社会にでるための知識と、思い通りにはいかない体験を通しての常識や教養をえ、葛藤を知る場でもある。
他人と関わらないネット配信授業は、便利だけでなく、他人とぶつかる恐れをさけることがある危険を孕んでいるのだ。
スーパーシティ、ダイバーシティ。。。
時代の最先端とかカッコいいとか、中身を知らないけど、と知ったかぶりをし、危険性を認識しない私たち。
コロナ禍は疫病と貧困だけなく、それをビジネスチャンスとするハイエナ行為が横行していることに気がついているだろうか。
子供たちに寄り添うべき教育現場は、課せられた課題が増加の一途をたどっている。
教育と相容れない効率化や利益化なども要求され疲弊している。
デジタル化はAI先生をうみ、それにより自分たちが失業するかも知れないと考える余裕すらない教師たち。
心と心が響き合う、血の通う現場を蔑ろにしてはいないか。
私たちは1+1=2の存在ではないのだ。
学校の本来の意義から切り離され、孤独になる子供たち。
聖域といわれる学校教育におけるデジタル化。
子どもたちのプラスが皆無とは言わないが、通常で継続する意味はあるのだろうか?
連合には日教組が入っている。
イデオロギーではない、大きな波が押し寄せている現実にあなた方はどう対処するのだろうか。
コロナ禍の一番の被害は健康でなく、子どもたちの教育現場における効率化や利益化を狙う教育のデジタル化であると保護者の一人として恐怖を覚える。